やさしい芸術論  
  (1999.5  山田正明)

その1 「美について」

「美とは一体何なのだろう?」というテーマが私の脳裏をいつもかすめています。
「美」を求める人間の欲求が、生まれつき備わっているものなのかどうかはとても興味のあるところです。
「美は人を沈黙させる」とある作家は言っています。つまり、「美」を形容する言葉など見つけられないのであって、人はただ、その美しさに感動させられ沈黙するだけなのだと彼は言います。
確かにそれが自然の摂理による「存在美」であるならば私も理解できます。しかし、芸術家という人間の身体的、哲学的作業を通して創作表現された「芸術作品」における「美」というものについて言えば、少し見方を変えて考えてみる必要があるのではないかと私は思います。
ある芸術家により創作された「美」というものが、もし大多数の人の感性(精神)に響くものでないとするならば、単にその作品とそこに「美」を感ずる個人が、まさに運命的に出会ったということであり、それはそれで幸運なことなのでしょう。
しかし、「美」が「芸術という領域」に存在しうる重要な点を考えてみるならば、表現されたその作品の内に、民族や宗教を越えた人類の誰もが持っている人間としての感性(精神)というものに対し、その芸術家の追求した普遍的な「真実」という哲学が、人々が共鳴しうる形や方法で、意識的に表現されているという点なのではないかと私は思います。
つまり、芸術作品における「美」とは、芸術家本人が追求している普遍的な哲学や人間観を、私たちの感覚や感情を媒介にして、私たちの感性(精神)の奥深くに訴えかけ、結果として私たちが自分では気づかないままでいた感性の内に眠っている普遍的な「真実」なるものと出会う手助けを、その役割として果たしているのではないでしょうか。
みなさんがある作品に出会い、それを「美しい」と感じたとするなら、その美しさは自分の感性の何に共鳴しているのだろうかと考えてみることは、とても重要なことだと私は思います。
ところで、今を生きているアナタにとって「美」とは何なのでしょうか。
誰でも、日常的に自己表現をして生きている中で、美しくありたいとか、カッコいい自分でいたいと思うのは当然な欲求なのかもしれません。しかし、その表現があまりにも表面的なことに偏りすぎてはいませんか。
私は、その人の哲学やその実践、またその人の生き方などもトータルに判断して、美しいというのでなければ、「美」が差別的な意識の領域でしか住めなくなってしまうと思います。
その意味でも私たちはもっと芸術と身近に意識的に接する必要があると思います。「美」が私たち一人一人の感性(精神)の内に確実に住んでいることを忘れないようにして、自分が生きていることの意味を深めたいと思います。
この機会に、アナタの内に確実に棲んでいる「美」とは何かを考えてみることは、未知なる自分を発見する良いチャンスかもしれませんね。
                            




                   その2「見るということについて」

今回は、私たちが日常の中でごく当たり前のことと思いこんでいる「見る」という行為について一緒に考えてみましょう。
生活の中で私たちはいろいろな「見る」という行為や経験をします。「花を見る」「絵画を観る」「映画を観る」「○○を視る」etc。言葉に発音してみればすべて「ミル」ということになります。
「ミル」という言葉を漢字に当てはめてみると「見る」「観る」「視る」です。又、その「ミル」という言葉の意味や体験の仕方、その視覚的な構造や意識のあり方について考えてみると、「ミル」にもいろんな意味のあることがわかってきます。
例えば、展覧会に出かけ、一枚のリンゴの描いてある絵画を「ミル」としましょう。
「あ〜リンゴが描いてある」と、記憶という知識でもってそれを再認識した途端、私たちは「ミル」ことを止めてしまっているのではないでしょうか。そして、好き嫌いで判断し、数秒間でその絵画の前を通り過ぎるのです。
その作者が色彩や線や材質などを駆使して、「リンゴ」というモチーフ(主題)を使い、芸術家としてのどんな価値観や哲学、そして感性に訴えるものを私たちに表現し提案しているのかということを感じとり、読みとろうとしないままに。果たしてそれで本当に「絵画をミタ」ということになるのでしょうか?
少し私たちの眼の構造について考えてみましょう。
眼にモノが映っている状態は構造的には水晶体というレンズに光りが映っている状態だということがわかります。それは意識とは関係なしに「見えている」という状態なのです。
しかし、果たしてそれが「ミルという行為」なのかどうかは考え直してみる価値があると思います。
なぜなら「ミルという行為」には、「見えてる」そのモノの存在の意味を読みとろうとする意識が不可欠だと思うからです。
ましてや芸術作品を「ミル」ということは、作品を通してその作者自身が表現している普遍的な哲学や価値観の提案や、また私たちの感性(精神)に訴えかけようとしているものが一体何なのかを、「見る」「視る」「観る」という総合的な「ミル」によって読みとろうとすることなのではないかと私は思います。
自分のことを「イイオトコ」「イイオンナ」「○○なヒト」だとミテモライタイ、そんな漠然とした願いは誰しも持っているものです。しかし、今一度、その願いの中身を冷静に考え直してみることはとても重要なことではないでしょうか。「一体全体イイってことは何なのだろう?」と。私はそのように哲学することが「イイオトコ」「イイオンナ」へと発展してゆく一番の近道だと思います。
そして芸術作品に向き合うときと同様に、「感情」「感覚」「感性」を磨きつつ「自分自身を総合的にミル」という意識を持ち続けることが大切だと思います。 
さて、アナタにとって自分の中にあるいろいろな「ミル」とは何でしょうか。この機会に、「ミル」をもう一度漢字に当てはめ直して考えてみることも、新しい自分に出会うとてもよいきっかけになるかもしれませんね。    



                    その3「芸術の表現について」

「表現とは何か」というテーマについては、実に様々な考え方があることでしょうが、今回は、「芸術の表現」について皆さんと一緒に考えてみたいと思います。まず、「芸術の表現」というものを、人間のある意識的な創作活動であると考えてみます。そうならば作品にはその作家の何らかの哲学(普遍的な意識)や意志が表現されていることになります。
もし、作家が鑑賞者の「感覚」のみにゆだねようとし、自らも感覚のみで制作したとするならば、なにもそのような作品を鑑賞するよりは自然の造形物を鑑賞するほうが、「美」を体験するうえではるかに有益ではないかと思います。
そこで、芸術という概念の存在がどんな価値をもって私たち人類に必要とされているのかを考えてみる必要があると思います。
芸術など無用な世界こそが本当は人類や地球にとって、もっとも望ましいユートピアなのかもしれません。
しかし、人類が欲望のままに敵対する他の人類や他の生命ある存在たちを排除し、搾取しようと動き始めてしまった歴史がいまも尚つづいている以上、人類や地球にとって、宗教や哲学と同様に芸術が現在担っている責務はとても大きいと思います。
芸術家はその使命をよく認識し、表現を通して人類や社会に対し彼の考える普遍的な哲学や研究の成果を提案し表明していく役割があると私は思います。その点を抜きにして、私たちが芸術家を尊敬できるはずはありません。
写実的に優れている絵が芸術としてもてはやされた時代もあります。確かに技術が優れていることはそれを模倣し学ぶ者にとっては有益なことでしょう。
感覚だけで描かれた抽象画にしても、「見てくれればわかりますよ」というような、作家側からの無責任な突き放しがあります。しかし、果たしてそれらを本当に芸術だと呼ぶのはどうなのだろうかと考え直してみる必要があるのではないでしょうか。現代の私たちを取り巻いている芸術的状況は、まさにそのあたりが曖昧にされていると思います。
「絵」を例に考えてみます。
「絵描き」と「絵画という手法を使う芸術家」とは、私にとっては明らかに違う存在です。
芸術は技術的なうまいへたではないと思うからです。「絵」はその模倣性において、うまいへたを判断することが可能かもしれません。
しかし「絵画という芸術」はうまいへたでは判断できないのです。なぜなら芸術の存在価値は、私たち人類にとっての普遍的な価値を提案する作家の哲学表現だからです。
もっとわかりやすくいえば、みなさんが日常の中で服を選んで着こなしたり、自分なりの化粧をしたり、誰かに自分の考えを話したりすることが、その人の自己を認めてほしいという意識的な自己表現である以上、誰もそのことについてその優劣を決められないのが本当ではないでしょうか。
もしも優劣を云々する人がいるとすれば、その人は差別的意識の強い哲学をしていない人、つまり感覚や好き嫌いで物事を判断してしまう人だということになるでしょう。
しかし、そのような傾向は人間誰にでもあるものです。
私は「芸術の表現」がそのような日常的な自己表現と異なる大きな点は、そこにその芸術家の考えている「人類にとっての望ましい普遍的な哲学」の提案や、作品を観る人の「その人の中にある普遍的なるものとの出会い」を願うという祈りが、作品という手段にによって表現されているかどうか、ということだと思います。
「自然の摂理」はまさに芸術だと私は思います。そしてまた、それに匹敵する哲学を、我々人類のために考えつづけ表現し、提案しようと努力している無名の芸術家達を私は尊敬したいと思います。
また彼らを私たちの周りに捜すことはそう難しくはありません。なぜなら、その点を意識して、芸術の表現というものをもう少し真面目に考えていくならば、みなさんの誰もがそのような芸術家になれるのではないかと私は思うからです。
                 


                  その4「芸術家って一体どんな人なんだろう?」

みなさんは「芸術家」という言葉を耳にされて、どんな人を想像されるでしょうか?
また、「芸術家」と云われる人たちにどんな特別な才能やモノの考え方を思い起こされるでしょうか?
実はこの「問い」について多くの人が漠然とわかっているようで、案外まじめに考えられてはいない「問い」ではないかと私は思います。なぜなら、多くの人が自分とは関係のない世界の人だと芸術家のことを思い込んでいるのではないかとおもわれるからです。
しかし、「アーティスト」とという言葉を耳にすれば、逆に多くの人がとても身近に感じられ、中には自分も「アーティスト」なのだと胸を張る人もいることでしょう。
「アーティスト」訳せば本当は「芸術家」となります。では、なぜこんなにも二つの言葉の間にズレを感じてしまうのでしょうか。日本の今後の文化を考えていく上でこれはとても重要な問題だと私は思います。
一般的に「芸術家」を称して「才能のある人」という一つの見方がありますが、私にはその意味することがよく分かりません。
「絵がうまい人」「歌や楽器のうまい人」「文章のうまい人」「芝居のうまい人」など、もしそのような技術的なうまさを「才能」というならば、そのような力や技は誰にだって時間をかければ身に付いていく可能性があるものだからです。
技術的なうまさだけで「芸術家」と呼ばれるのであれば、みなさんの誰もが「芸術家」になれることでしょう。
また、「表現する人」がアーティストだというならば、みなさんの誰もがアーティストになるでしょう。
そこで、やはり「芸術=アート」という日本的な問題を少し考えておく必要があると思います。しかしこれは何も難しい問題ではありません。
以前にもこのシリーズで書いたように、「芸術」は創り手である人間が、人類にとっての普遍的価値へのベクトルを持った哲学を研究し、それを表現し、伝達するための手段や方法だからです。
おそらく、みなさんの誰もが「自分は何のために生きているのだろう?」と真剣に悩んだり考えてみたことがあることと思います。つまりそれは「哲学している」ということになるのですが、実はこの「哲学」の中身がとても大切なのだと私は思います。
つまりその哲学の中身が個人の問題や自己満足的な形で完結してしまうものならば、その表現が人々に伝わることはとても無理なことと思われますし、その作品は多くの人から「わからない」という評価をされても当然なことでしょう。
では「芸術家」と呼ぶにふさわしい人々の「哲学」の一体どこが違うのでしょうか。
それはその作家の研究した哲学の中身に、人類や自然社会にとっての普遍的価値の発見というベクトル線上の「生あるものの肯定」があるかないかということではないでしょうか。そして、その「生あるものの肯定」のためにどんな具体的な考え方や実践の提案を、作品を通して今を生きる私たちに、また将来の人類に対して行っているかということが、芸術家の条件にとってもっとも重要なことだと私は思います。
つまり、グローバルに共有でき得る提案やメッセージがそこにあるのかどうかです。
さて、そのようなベクトルをアナタが考え実践していくならば、アナタも立派な芸術家の一人になれると私は思うのですが、アナタはどう思われますか? 



                    その5「ギャラリーについて考える」

美術作品などを鑑賞されるのが趣味で、美術館やギャラリーへ出かけられる方も多いと思います。
公立の美術館の企画には確かに世界的に有名な作品や初めて目にする作品が多いのですから、愛好家でなくても出かけていくことでしょう。
しかし、私たちの住んでいる街の中にある、小さなギャラリーへ訪れる人は、まだとても少ないのが現実のようです。一時のあの美術品に対する異常な熱狂ぶりが冷めきってしまった今、芸術に対する関心や理解が、日本において本当に高まったかどうかは疑わしいものです。
ところで「ギャラリー」という存在について、みなさんはどのように考えておられますか? もちろんギャラリーにも多くの種類があります。
売り専門、企画専門、貸し専門のものなどさまざまです。またその形態は違っていても、おそらく作品を売買しているということでは共通しています(例外的に売買をしないギャラリーもあります)。
もちろんギャラリーはそれで生計を立てているのですから当然といえばその通りです。しかし、鑑賞する人にとって作品の下に付けられた値段は、作品を観るうえでとてもジャマになるような気がします。作品を観る楽しみだけでギャラリーに入ることも、何だか商売に結びつかないようで敷居が高くなってしまいます。(私などは気が小さいので例え少額でも入場料を取ってくれたほうが安心してゆっくり観られますが)。
 ところが、意を決してギャラリーの中へ入ってみても、作品や作家の哲学を理解する上でまだまだ不親切な状況が拡がっています。そのギャラリーがなぜこの作家や作品を企画したり販売したりしているのかという、ギャラリーのポリシーや考え方の見えてくる所がとても少ないのです。
「芸術なんてどうせわからないくせに何しに来たんだ」という殺気さえ感じるギャラリーさえあります。(そんなギャラリーほど値段がやけに目につくのは私の思い過ごしでしょうか)。
 私は、美術作品が芸術という文化の重要な一翼を担っているとギャラリストが自負するならば、そこに展示する作品に対して芸術としての価値を表明する義務がギャラリーにはあると思います。
外国の中には、NPG(非営利ギャラリー)が社会的に認知され、その使命を果たしているところがあるそうです。それは作品を有名無名に関わらず商品としてではなく、それが人類にとっての大切な芸術としての価値観の提示なのかどうかということを判断する知的集団のことです。
もちろん日本にもNPG が皆無というわけではないのですが、その活躍ぶりが多くの人には伝わってきません。
メディアも我々も、今少しNPG に対し関心を高めたいものです。
さて、私はギャラリーがもう少し作品を観に来た人たちに対し、なぜこの作品を提示しているのかというギャラリーの考え方、作家の価値観やポリシーを理解する上で必要な資料の提供、その他芸術の重要性を理解してもらうための努力をすべきではないかと思います。それが結果的にビジネスにも繋がるのではないかと思います。
この地にギャラリーは沢山ありますが、アナタが自分の足と目で確かめ、またギャラリストにどしどし質問をして、アナタにとっての価値あるギャラリーや作品と巡り会われんことを祈っています。